2007年12月27日木曜日

笠井叡と高橋悠治


来春の二月、笠井叡と高橋悠治が再び共演するという。場所はシアタートラム。
相当に関心がある。空間的にも、その使いようによっては歴史的公演になるやもしれない。そんな予感めいた想像する。バッハの「大フーガ」を演奏するとのこと。前回は小さな空間で、「ゴールドベルク」だった。前回の記録写真を見る限りでは、二人のエネルギーが空間に遮られ、ある意味自爆的であったのではないか? 

こちらからの勝手な想像・・・
二人の質が似ている。ストイックで悪戯。モーツァルトのような無邪気さ、ベートーベンのような夢想。そして、バッハのような構築への憧れ。似ている。生真面目なのか、でくの坊なのか、単なる質か? 「生きる」ことを追求する二人。天才と呼んでもいい。きわめて日本的でありながら、いわゆる西洋思想をどっぷりとしみこませ、極上のぬか漬けかチーズか。だれにも有無を言わせない。
自分は、ふたりを〈知の放浪者〉と呼びたい。飛び抜けた身体への関心。自らの身体を見極めたいと、あらん限りに「知」をむさぼる。結果、ふたりは放浪者として生きる。際限のない挑戦。

この二人のユニークさを受け入れてる〈社会〉という仕組みが面白い。そして逆説的に、二人の放浪者が社会という仕組みを受け入れていることの面白さ。武満徹の許容、土方巽の許容を想う。
〈生き様〉が「仕事」になっている。圧倒的観客は彼らの在りように魅了される。気がつけば、身体から離脱し、「知」の階段を上っている。歩行しているのだ。上っているのだ。そして、ふたりは我慢できずに周囲にわめく。「勝手に俺についてくるな、おまえはおまえで上がってこい」と。それを観客は「おもしろい」と受け留める。

きっと、ふたりとも気づいてはいない。
彼らのいる空間全体が、パフォーマンスしてしまうことを。
見入る観客自体がまったく無意識に、〈疑い〉を手放し、個々に〈知〉のパフォーマンスをしてしまう。
ここに、社会という仕組みの妙(神秘・源)がある。

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