2009年10月15日木曜日

夢十夜 舞い語り 


一年ぶりの公演です。
ブログも今年にって初めてとは!
夢十夜なみです。
12月9日(水) 19時開演
山武市・成東文化会館のぎくプラザ

出演は、わたしと
お馴染みの高橋壌司さんと安田善吉さん。
それと、舞台にはガラス作家・向山麻子さんの作品が。



実は、能楽師の安田登さんに出演依頼を打診していたのですが、
どうもお忙しいらしく、お返事をいただけずに、・・・
チラシ制作の時間を延ばすわけにもいかず、
見切り発進になりました。


能楽師の安田登さんとご一緒したいなと、今春から考えていて、
三月に一度、安田さんにお会いし、その旨をお伝えしていました。
ただ、その後、わたしがいろいろに考えあぐねている内に日が経ってしまい、
正式に打診したのが遅すぎたようです。

十分、やる気になって
公演で、「舞い語り」をタイトルに入れのは初めてかも。

まずはアップ

2008年12月28日日曜日

斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ


斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ
 「時」をテーマとしたフリーインプロヴィゼーション
 2009.1.31(土) 開場19時 開演19時半
 会場 コア石響(カノンホール)

斎藤マコトさんの初の公演を紹介したいと思い・・・、うーん。
斎藤さんは、普段僕が滅多に聴くことない音楽ジャンルにいる。パソコン上で「音」を作り、MIDIとか、生音源とかをさらにミックスした〈音楽〉。僕はきわめて「ナマ楽器派」。で、どうしても敬遠しがち。が、彼のワークはいつも僕の気をひいて来た。なにやら僕の分からない、知らない、気づかない〈音空間〉を創造してるのでは?と。

〈音〉は〈発信者〉を媒介するもの、自分には〈発信者〉を知りたい欲求が強かった。演奏者は何をしてるの? 何をしようとしてる? 何を現したい?。だから、発信者の《意志》の結果である〈音〉、〈音〉そのものを楽しむことは稀だった。
昨年暮れに、僕は11弦ギター演奏のCDを作ったが、そのマスターCDを斎藤さんにお願いした。そしてこの時以来、僕は初めて「オーディオ」に関心がわき、ステレオ機器のあれこれを取っ替え引っ替えして《音》を聴く、〈音〉の趣味にはまってしまった。

ところで、日本には面白い〈音〉の楽しみ方の伝統がある。鹿おどし、水琴窟とか。自然の現象を活かして、結構規則正しい「リズム」だけの〈音〉を味わう。が、文化はこの独特な〈音〉空間の味わいを《間》あるいは無音と有音の妙、また《静けさ》や沈黙の味わいとしてきた。唐突に「カーン」と響き渡る鹿おどし、それがしばしの「間」をおきながら繰り返され、いつしか、繰り返しのリズムに身体は寄り添う。逆に、明け方のもっとも空気の落ち着いた時間帯に、きわめて小さな「ピィン」という〈音〉を聴き取る、聴き取ることの味わい、小さな〈音〉は次第に時間を紡ぎ、そして自然界のごく微少な〈音〉たちが響和しだし、そこに身体も和する、水琴窟。
思えば、〈音〉への気づきの妙が、まず此処にはある。
有意の仕掛けと、無意の〈音〉。

有意の仕掛けと、無意の〈音〉。
そんな〈音〉には、〈身体〉の反応でしか楽しみは現れないではないか。
これは〈音〉への《素朴な》対置。

斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ
気になる公演である。
有意の仕掛けと、無意の〈音〉。〈音〉への《素朴な》対置。
が、そこでの〈音〉は「複雑」だ。
いわば、都会という空間、雑踏という空間が《自然》の一種であると受け止める「意識」の解放が必要に思われる。
おそらく身体だけではとらえきれない、「解放した意識」を身体に動員することで聞こえてくる〈音〉たちが立ち現れるだろう。

もうひとつの期待がある。
僕にはずいぶんと久しぶりの《未知なるもの》への期待だ。
「世界」という観念が有限なものになり、既知と既知のつなぎ合わせが優先されて久しい。
〈既知〉を懐かしみ、〈既知〉を確認し、〈既知〉を共有する。
僕はずーっと問い続けてきた。人はどこへゆきたいの? どこへゆくの?
本来、「世界」は《未知なるもの》を包含している。
その《未知なるもの》が私たちに新たな一歩を踏み出させてきた。そう思う。
《未知なるもの》。
メトロノーム? メトロノームオーケストラ?
一見奇をてらった、公演タイトルと内容のようだが・・・
予想や推測を超える何かが現れるように思えてならない。
いわゆる「デジタル」な音源を操作することが本業の斎藤さんが、〈規則正し〉とは言え「アナログ」な〈音〉、しかも無操作の音源をそのまま聴衆にゆだねる。危険きわまりない思いつきである。
この企画には、斎藤さんの〈音〉への本来の《素朴さ》をおぼえる。
この彼の〈音〉への《素朴さ》が《未知なるもの》への期待感を募らす。

2008年12月14日日曜日

「 Ku Holo Mau 」公演を終えて

あっという間に公演は終わった。
五年ぶりの自主公演はどんなだったろうか?・・・これまでになく、普通!
という、実感。きりきりした理論も、見えない壁に刃向かう挑戦もなかった。
それは確かにタイトル通り「 Ku Holo Mau 」、
原初へのいざないだった。

いま、レヴィナス著『困難な自由』を読み続けている。
一日に数行、時に20ページくらい、ゆっくりゆっくり。こんなに間を置きながら読んだことは今までない。ふしぎ!
本を読むとき、じぶんはいつだって「じぶん」を対置する。それは「じぶん」を発見するための読書だから。
昨夜、夢の中で「総体としての人間を、個人はその個性の元で生きている」と。
ううん、発見。と、うれしく目覚めた。

以前、鶴見さんのことばで感激したこと。
☆ くらしそのものは、くらしの意識よりも大きい。そしてもっと重大なものを含んでいる。私自身のくらしは、私の考えをこえる重さをもつ。
☆ 記録にのこるわずかの数の個人を越える偉大な個人が人間の総体にいる。人間の総体は、どんな偉大な個人より偉大である。

二十世紀、「個」の尊厳・尊重は集団や社会や国家というものに対峙する形で進んだ。とりわけ、第二次大戦とその反省からの戦後に。
が、レヴィナスは気づかせてくれる。
「個」は人間の総体からできているのだと。
個の尊厳は人間の総体を有する個であることに由来する。
この気づきは観念ではない。あまりに自明なために気づかれてこなかった。

ようよう、《原初》というものに触れるようになってきた。

2008年10月30日木曜日

11月20日、いっしゅう公演のお知らせ3

 音楽で共演していただく方です。

沼尾美和子さん。ウィーン音楽院のピアノ科とチェンバロ科の両方を卒業。
古楽演奏の大家アーノンクルにも学んでいます。現在は栃木県日光市にお住まい。
今回は、チェンバロの名曲、バッハの「半音階的幻想曲とフーガ」が演奏されます。それと、おそらく多くの方は聴いたことのない楽器、クラビコード(ハンマークラビーア)を演奏していただきます。その「音」には、ちょっとため息が!。






高橋壤司さん。わたしとは何度も共演していただいています。
それもいろんな楽器で。石笛、バラフォン、縄文太鼓といった珍しい楽器の演奏も多々ありました。
もしかしたら、彼が本来リコーダー演奏者であることを知らないファンも多いかも。今回は正当に「リコーダー」。
しかもチェンバロとの二重奏で、バッハの大曲を演奏します。曲目は、なんと「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ二番」。もちろん、ソロ演奏もしていただきます。





林田遼平さん。チラシが出来上がってから、参加いただけることになりました。オーストラリア・原住民アボリジニの伝統楽器「デジュリドゥ」を演奏していただきます。現地で一年以上演奏を学んで、つい先日帰国したばかり。これも楽しみです。

2008年10月26日日曜日

11月20日、いっしゅう公演のお知らせ2


さて、公演タイトル「 Ku Holo Mau 」ですが、チラシ裏面に以下の文章を載せました。

駆動機を持たず、羅針盤もない、原始的な舟「ホクレア号」と呼ばれる双式カヌーが、ハワイから日本までの航海を成功させ、その航海記録を著した方(内野加奈子さん)に出会えた。
太平洋・ミクロネシアに伝わる昔ながらの航海術、風と海と空と星を読み取り、進路を決め、舟を操作するという。本公演のタイトルにさせていただいた「Ku Horo Mau」は、ハワイ語で「マウへ向けての航海」の意。
「 Mau マウさん」。ミクロネシア諸島・サワタリ島の唯一最後の伝統航海術師。このマウさんが1970年代からハワイの人たちに伝統航海術を伝授した。


Ku Holo Mau

風を感じるのはだれ?
そらの光を受けるのはだれ?
あたたかさや、つめたさを滲ませるのはだれ?
生きているものたちの匂いをかぐのはだれ?
「せかい」ということばに身をさらすのはだれ?

もし、目的の地を持っていなかったら、あなたは舟をこぎだすだろうか?
たしかに、言い伝えや古い書き残された地図の中に、
あなたの「緑の地」はあり、あなたは信じることを疑わずに、海の上の人になる。

まぼろしかもしれない、あるやなしや、たどり着いてみないと分からない「緑の地」に、
あなたは漕ぎ出す。(「目的の地」はあなたの 想い の中にしかないのに)

もっとも頼りない、「かなたに緑の地はある」という 想い が、
あなたのからだのすべてをはたらかせる。
旅立ちは舟を沖にみちびく波の良い日をえらんだ。
夜をむかえ、朝をむかえ。いくにちかを波のリズムにのってすすむ。
あなたはうたがわない、あなたの想いの中の緑の地が、
ぎらぎらの青い海原の「向こう」にあることを。(どうして、あなたはうたがわない?)
お日さまの道をみながら、「あっちだ」と指さす。
風をうける肌は、天の移り変わりより早く、嵐が来ることをおしえる。
潮の流れを舟に読み取りながら、「こっちだ」と梶を切る。
夜の星々は、昔のむかしから、緑の地とともにあったと。(信じてうたがわない)
空が照り返すのか、海が照り返すのか、銀幕の無。
ただ進み、ただ其処にあり、時はからだのすべてとともに変わる。
海の道はあなたがつくり、あなたのつくる道は天にきえる。
・・・・・
海に住む、またそれとは違う生き物たちの生くさい匂い、
鳥が空を舞い、「陸?」は近い。(からだはふくらむ)

 緑の地。
 それはあなたの《想い》だった。
 想いがあなたの《いのち》を燃やし、《いのち》があなたの 想い をいざない。
 緑の地に立つ。
 そうして
 せかいが生まれる。

2008年10月24日金曜日

11月20日、いっしゅう公演のお知らせ1




ほぼ五年ぶりの自主公演をすることになりました。今日から何回か分けて、公演について記したいと思います。まずはチラシの様子をアップしましまた。

2008年6月6日金曜日

記すことの意義

今日はたくさんのブログをみた。頭が右往左往しながら、「ことば」の豊かさとつまらなさとを往き来する。なぜ記す? それは「じぶん」が自分の記したことばをみたいから、と書いてる人がいた。うん、これは確かだなと思う。ほとんどの場合、現れることばは瞬間で、次の現れることばを予期などしていない。こうしてキーを打ちながら、打とうとして現れることばに「じぶん」が釣られながら次のことばを打とうと指の運動連鎖させている。「じぶん」はこのとき二人いる。先に進もうとする「じぶん」と何かの形で「じぶん」を確認しようとするもう一人の「じぶん」。ううん、そうすれば最低三人の「じぶん」がほぼ同時に「行為」している。これら三人を「一人のじぶん」として眺めたくて文を記す、ということか? 
だけど不思議なのは、いろんな人の文章を読んでいて、その書いた人自身が自身を振り返ってるように感じられず、なんて言うか「言葉」を放り投げてるような。その人の位置というか立場というか、それらの感情だけが感じられて。戸惑うじぶんはじぶんの心の狭さでないだろうかと自問する。
ときに元気のよいことばを発するじぶんではあるけど、それでもじぶんから現れたことばはまずじぶんに還ってくる。それはじぶんの質か?とよく思う。
「じぶん」は何をどのように考えてるのだろうか? そう思いながら「ことば」を現す。その行為は〈表す〉ではなく〈現す〉。じぶんすらわかっていない「じぶん」のことばなのだから。現れた「ことば」でようよう確認できる。「表れ」に関しては大体は〈不十分さ〉を覚える。
おそらくじぶんが他の人の文章にふれるとき、このようなことがその人の書き方に感じるかどうかを気にしてるような気がする。

「言葉」は基本的に、他者に向かっている。日記のように読み手が自分自身でも、その時の自分自身を他者として暗に置いている。その手慣れてしまった「言葉」の使用法を多くの人は疑わないようだ。「ことば」の成り立ちをヴィトゲンシュタインとかチョムスキーとかが説き、その説かれた言葉の成立を理解しているという人たちすら、ほんとうに、〈理屈として〉理解しているだけ?と、いぶかってしまうことが多い。

じぶんには、個々人の「言葉」から、その言葉の意味よりもその人の「感情」が伝わってくるように思える。そういう「ことば」が多い。だから、だれかと話しているとき、応対がとても遅れるときがある。なにをぼくに伝えようとしてるのか、ぼくはどう返答したらいいのか、と分からなくなって。もちろん応答する内容が機械的というか、目的がはっきりしてるのであればその内容に沿うだけなので結構即答できる。また、内容がもともと互いの感情的なものであれば、もっと速やかに反応できる。喜んだり怒ったり悲しんだり。でもよくあることは、「おれの(わたしの)気持ち・感情を受け取ってよ!」と立場や位置を了解してもらおうと伝えられること。

で、ブログを読んでいてもその手のたぐいが多いように思える。不特定多数に向かって発せられていながら、読み手の「賛同者」を意識的に、無意識的にも前提にした言葉の使い方が。
ふうん。「小説」は不思議だな。ここまで記してきたようなことを気にせずに、物語りにはまっていく。これは「目的」の慣れなのかな? 小説家も読み手も。考えてみれば、小説では「行動」の軌跡が記されていくのが圧倒的。「行為」そのものを現すのは至難かもしれない。・・・ふいに、こうして「じぶん」は記しながら、つい先日読んだ岡田利規の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を思い浮かべている。大江健三郎が驚いたナラティブの表現方法。言えば「行為」への着眼。なにが自分を動かしている? 自分は何をしている? 「自分の行動」をみちびく〈関係〉を表す。ある意味、それはまどろっこしい。 〈じぶん〉がじぶんに問いかけている姿。それは物語りか? やはり大江健三郎は驚いたのだと思う。行動の軌跡を描く方法の中から〈行為〉のみなもとを現し得たらと、彼独自の方法論をひたすらに模索して来ていたのだから。

あらゆる神秘思想の核、意志、というもの。行為のみなもと。
すぐれた役者にみる〈感情〉の「動き(波)」。すぐれたダンサーや演奏家にみる「動き」の〈発露〉の連続(塊)。観る者、聴く者を圧倒してきたのは「意志」の現れ。ことばを紡ぐ芸術家が憧れてきたこと。また物として表す絵や彫刻のアーティストが何よりも現したいもの「意志」。
大人たちの「子ども」への羨望も、また「遊び」という行為への繰り返されるまなざしも。

「意思」という漢字はおもしろい。「意志」の〈意〉と、思い・思わく。意思の思は〈感情〉にほかならない。わたしたちは「ことば」を《意思》表明として使っている。それは西洋も同じこと。だが、「文字言葉」から映し返された「ことば」の理解は違った。西洋はすくなくも「ことば」を意志表明だと考えるし、前提にする。その前提はあまりにも強すぎた。だからヴィトゲンシュタインのような人が現れた。
その固執はキリスト教にみるように、〈意志〉表明は願いであり、願望であり、希望であり、理想である。
一方、西洋は「ことば」に託された〈感情〉を読み解こうとしてきた。それが心理学や人類学をも発展させたのではないか?
逆に日本語を母語とする日本人は、〈意志〉を見いだしたいと試み続けている。がむずかしい。
もしも「ことば」への接し方が変わってきたら、よりハッキリと、〈ことば〉にも「意志」を見いだせるのではないだろうか? そのひとつに漢字の起源から白川静が解き明かした「文字」の生み出され方にみる。表された文字の意味ではない。現れた文字のでかた。本来は声とともにあった「ことば」をどうして「文字」というものに変換したのだろうか? それはまぎれもなく「意志」を〈外に〉現す(=表す)こと。本来、感情と意志とがひとつであった発語する「ことば」から、「意志」をはっきりさせたいと。白川の甲骨文字解読は「意志」の表出にあったと、じぶんはそのように思う。
だが、日本語の発展はおもしろい。中国で約千年の経過を経ての、意志表現としての漢字という文字を日本は輸入した。はじめは中国の使い方に習いながらも、次第に自分たちの発音をそのまま漢字に当て、それから漢字の意味と共通な「意味」の和語をそのまま和語の発音で読ませるようにもなった。さらには「ひらがな」文字をつくった。いわゆる「表意文字」であった漢字に、「表音文字」が加わった。漢字と万葉かな(漢字を和語に当てる)と仮名を混合させながら文字表記は発展した。
日本語ほど感情を「意味」としてとらえ得る言語はないのではなかろうか。平仮名は〈表意〉を背景に、〈表音〉化した。年月の中で、日本人は本来の漢字の生い立ちを踏襲しつつ、一方「感情」を「感情的意志」として文字に転化し、文字に転化された「感情的意志」を自分の感情のありようの鏡とするようになった。そこにはすでにヴィトゲンシュタインやチョムスキーが解き明かした「言葉」は了解され、了解されすぎていた。いわずもがな、本音と建て前、あいまいさ、論理的でない等を含め。
だが、ヴィトゲンシュタインやチョムスキーが解き明かした「言葉」の成立を日本語の分析に〈うまく〉応用できないでいる。それは元々の日本語の成り立ちを考慮せずに、今ここで使われてる日本語を西洋の言語分析に対応させているからではないか?
いわゆる明治以降に西洋の言葉を日本人はこまやかに理解できた。こまやか、つまり西洋の「感情」を無意識に翻訳した。ほんとうに全く無意識に。西洋がそれ自体常に葛藤してきた「意志と感情の関係」のなか、「言葉」を、「文字言葉」を〈意志表明〉として培い発展させてきた「西洋文化」を日本人は異もなく理解した。が、西洋の文化と言葉の関係を彼ら自身の解説するとおりに自分たち自身は受け取っていると〈正しく〉誤解しながら。
和魂洋才。典型は「意訳」である。文化の違い故に理解できない表現をこちら側の文化に当てて理解する。それはつまるところ「感情」の位置を再現したいという日本人の欲求である。何故、しばしば口語調の訳よりも文語調がしっくりするのか? 

白川の発見した文字の生まれ方に改めて目を向けると、少なくも「言葉」には〈意志〉が遺っている。その深く、遠いところに。彼の解読のために着眼した人類学や考古学の例証に目を奪われることなく、その文字の発祥を見定めるなら。
じぶんの思いは逆行してるかも。記号と表象がどんどん二項化する現代に。いわゆる「擬音・擬態」への嗜好。それが何故か「個性」とも連動して、〈感情的個性〉が望まれる時代。
もはや「人間はどこに(へ)〈向かっ〉てるのか?」とは問わず、「人間は今どこに〈いる〉?」と問う。
さて、「記すことの意義」というじぶんのテーマ。
それはじぶんの〈意志〉に気づきたいということ。
現れ出る「ことば」から、いまだ現れ出ぬ「ことば・未来」を予感したいと。
(この文章は書き始めてから三日目にブログに)