2007年10月15日月曜日

《空間》を踊る?

昨夜、NOISMの公演を観てきた。2階右サイドから観たからかもしれない、「空間」が気になった。ダンサーは無意識にも正面を気にしてるのかな? ダンサーは空間を動く。だが、その「空間」は踊るスペースとしてで、踊ることで現れる空間には感じられない。照明も装置も面白い。けれど、それらは踊るための〈仕掛け〉、空間のための〈仕掛け〉ではない?
改めて、難しい課題だなと思った。ダンス、身体表現は「身体」をみせることに尽きるのだろうか?それは大方、確かなこと。じぶんは「此所に在ること」が気になるタイプ。
装置としての舞台。演じる人と観る人とを区分けし、演じる人が空間を仕切る。
仕切るとは、創ること。
じぶんは新たな「舞台空間」を創ることがパフォーマンスだと考えている。
そのパフォーマンスのひとつに「ダンス」があると考える。
ダンスという身体表現はパフォーマンスの下位にある。
そこでは照明や装置もパフォーマンスだと考え、ダンスを支えるモノではなく、〈独自〉にその「空間」を創るものとして機能することを考える。もちろん音楽も。

音楽が音楽として聞こえて欲しい。
照明が光として見えて欲しい。
装置がそれ自体の存在としてはたらくことを分かって欲しい。
そして観客が、観客がいることで、この時間空間が出来ていることに気づいて欲しい、と。

昨夜はじぶんの方向を再確認させてくれた。
(写真・美谷島醇、ガラスアート・大村俊二)

2007年10月13日土曜日

CHIKARA WO

公演《 FORE 》に寄せて

hikari to tomoni
kaze to tomoni
motome yuku hito
CHIKARA wo umi tamae

hikari to tomoni
kaze to tomoni
motome yuku hito
CHIKARA wo sodate tamae

hikari to tomoni
kaze to tomoni
motome yuku hito
CHIKARA wo wakachi-ai tamae

hikari to tomoni
kaze to tomoni
motome yuku hito
CHIKARA wo
hikari ni kae
kaze ni kae
atarashii SORA to DAICHI wo tsukuri tamae

2004年《 Fore 》公演に寄せての詩。
この公演の後、ほぼ一年の放浪。
そこから再び普通の生活に戻るのに、また一年を要した。
自己の定めがたい生き様から何が現れてくれるのか?と、希望だけは消えない不思議。
少し寒くなり出して、身がシンとする。
(写真:安田善吉さん)

2007年10月5日金曜日

アート、アーティスト?

サウンドアーティストの藤本由紀夫さんが、次のようなことを記している。

芸術」と「アート」という言葉は、同等の意味を持っているのだろうか。
・・・・・・
「アーティスト」という言葉を日本語に訳すとどうなるのか?
「芸術家」なのか「美術家」なのか?
artを辞書で引いてみると「芸術」「美術」両方出てくる。
私達も日頃、アートという言葉を「芸術」「美術」を区別することなく使っている。
いわゆる「美術家」の人達にとっては、別に問題にすることではないかも知れないが、「音楽家」である私にとっては結構気になる問題である。
私は「芸術」を行っている意識はあるが「美術」を行っている意識は持ち合わせていない。だから、「アーティスト」ではあるが「美術家」ではない。
「芸術」と「美術」はどう違うのか?
「芸術」と「アート」は同じ意味なのか?
「美術」と「アート」は同じことなのか?
アーティストと肩書きの付いている人の日本語表記は「美術家」または「現代美術家」というのが多いように思える。「芸術家」と名乗る人はあまり見かけない。何故なのだろう?
ちなみに私の場合、「サウンド・アーティスト」の日本語表記は「音楽家」としている。


人は結構、使い慣れている「言葉」の語義を探りたいと思うときがある。ふと、どんな意味でその言葉は使われてるのかな? 語源を調べていって、とても意味がハッキリするときもあれば、ますます分からなくなるときもある。その分からない「言葉」を詮議しだすと、しばしば、じぶんの疑問を忘れてしまう。あげくには「言葉って何?」と、訳分からない世界にはまってしまうこともある。じぶんの場合特に。
大学時代、社会学でしょっちゅう「言葉」の概念規定を要求された。「言葉」は〈ある内容を集約しての意味で、「道具」として使われる〉のだと。だからひとつの「言葉」が学派によって、時には人によって異なる「意味」で表現されるから、「言葉」は共通だが共通ではない、と。これはとても大事。普通に一般化できる。「言葉」は人によって〈意味〉を同じくしない。

が、「言葉」は道具として使われるだけでなく、発語する〈じぶん〉そのものを表明したいためにも使われる。これがすごく面倒で難しい。「じぶんのいってることを分かってもらえない」と怒鳴ったり、つぶやいたりする。普段の生活では、「言葉は人によって〈意味〉を同じくしない」とは、自己表明を分かってもらえないとき。そして、「言葉」に疑問を持つときの心理は、大方、じぶんの感情面から現れる不安を抱いたときのように思える。ここでの「言葉」の意味は自己存在の確認であり、自己を代弁する目的にある。今日の大きな問題であるが、いつの時代もそうだったに違いない。

「言葉」はたった二つの要素で出来てるように思う。
道具と自己表明。

ところが、《詩的言語》という言い方がある。
「詩」で表現される「言葉」は、誰もが使える道具としての「言葉」でもなければ、自己表明としての言葉でもない、と。
「詩」で表現される「言葉」は、〈意味〉ではなく〈世界〉を現す。
「詩」は「言葉」を使いながら、「言葉」を無くす。そこに立ち現れるのは世界。
〈立ち現れる〉、〈世界〉?

以下は、95年に記した文章です。
・・・・・
詩人は「観る」ことに専心します。私どもの生活は外界への対処・対応が必然ですし当たり前ですが、詩人はあたかも赤子のように対処・対応する世界である「生活」を観、享受し、言語に置換します。詩とよばれる言語に置換された「生活」が一詩人の生活経験を越えて、ある透明な、かつ具象な体験に成りうるのは一重に詩人の「観る」作業によります。

詩人が詩人足りうるのは「観る」作業と同時並行して「観ている自分自身を観る」ところにあり、「自分を観る」作業の透徹さが詩人を至高の芸術家にしているものと思います。
「自分を観る」、言い替えれば「意識の創造」と言えます。

人間の営みの一つとしての芸術行為に問いかけを発したのは今世紀・20世紀です。周知の通り、絵画のダダ・シユールレアリズム旋風はそれまでの西洋の芸術観にあらゆる疑問符を投げかけました。そして初めて、「芸術(芸術行為)とは何か?」と行為そのものを問いました。この問いかけは丁度今世紀百年の、いわゆるヨーロッパ列強を基軸にした、世界情勢の混乱や世界の経済的・時間的狭小化に機を一にしております。

一般に、芸術は感性や感受性また感覚に秀でた人によって創られると見傲されています。しかしシユールレアリズム展に出品したデユシヤンの『泉』(便器)に見るような、その作品そのものに本人のいかなる手も加えられていない「モノ」に対して「芸術」を感得させられるとき、私たちはいやが上にも芸術を成り立たせているはずの感性・感受性・感覚以外の人間の能力に思いを馳せざるを得ません。断るまでもなく、これは第六感と呼ばれる類のものではありません。当然に時代や世相に反映した「解釈」による芸術ではありません。デユシヤンの作品に観えた「芸術」はデユシヤンの「意識」であったのです。

芸術とは何か?それは「意識とは何か?」と同じ問いかけであることに気づきます。そして今日、芸術とよばれる生活行為をする人も、芸術の生活行為を観る人も、自らの行為すなわち意識に目覚め、自らの意識を創っていくことが目指されているものと思います。

芸術は一人ひとりが「詩人」になっていく場と時間を共有することのように思います。
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〈世界〉とは〈じぶんの意識〉。
〈立ち現れる〉のは〈新たな〉じぶんの意識。
どうでしょうか? ここで、「アート」も「芸術」も、共通の意味をもつのではないでしょうか? アートが美術、アーティストが美術家を主に示すのも納得がいきます。美術は「意識」の視覚化なのだから。芸術や芸術家という日本語の意味する由縁も分かるような気がします。
じぶんは、「アート・芸術」を〈じぶんの新たな意識の表出をなにがしかの形にする作業行為〉と思っています。