2008年12月28日日曜日

斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ


斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ
 「時」をテーマとしたフリーインプロヴィゼーション
 2009.1.31(土) 開場19時 開演19時半
 会場 コア石響(カノンホール)

斎藤マコトさんの初の公演を紹介したいと思い・・・、うーん。
斎藤さんは、普段僕が滅多に聴くことない音楽ジャンルにいる。パソコン上で「音」を作り、MIDIとか、生音源とかをさらにミックスした〈音楽〉。僕はきわめて「ナマ楽器派」。で、どうしても敬遠しがち。が、彼のワークはいつも僕の気をひいて来た。なにやら僕の分からない、知らない、気づかない〈音空間〉を創造してるのでは?と。

〈音〉は〈発信者〉を媒介するもの、自分には〈発信者〉を知りたい欲求が強かった。演奏者は何をしてるの? 何をしようとしてる? 何を現したい?。だから、発信者の《意志》の結果である〈音〉、〈音〉そのものを楽しむことは稀だった。
昨年暮れに、僕は11弦ギター演奏のCDを作ったが、そのマスターCDを斎藤さんにお願いした。そしてこの時以来、僕は初めて「オーディオ」に関心がわき、ステレオ機器のあれこれを取っ替え引っ替えして《音》を聴く、〈音〉の趣味にはまってしまった。

ところで、日本には面白い〈音〉の楽しみ方の伝統がある。鹿おどし、水琴窟とか。自然の現象を活かして、結構規則正しい「リズム」だけの〈音〉を味わう。が、文化はこの独特な〈音〉空間の味わいを《間》あるいは無音と有音の妙、また《静けさ》や沈黙の味わいとしてきた。唐突に「カーン」と響き渡る鹿おどし、それがしばしの「間」をおきながら繰り返され、いつしか、繰り返しのリズムに身体は寄り添う。逆に、明け方のもっとも空気の落ち着いた時間帯に、きわめて小さな「ピィン」という〈音〉を聴き取る、聴き取ることの味わい、小さな〈音〉は次第に時間を紡ぎ、そして自然界のごく微少な〈音〉たちが響和しだし、そこに身体も和する、水琴窟。
思えば、〈音〉への気づきの妙が、まず此処にはある。
有意の仕掛けと、無意の〈音〉。

有意の仕掛けと、無意の〈音〉。
そんな〈音〉には、〈身体〉の反応でしか楽しみは現れないではないか。
これは〈音〉への《素朴な》対置。

斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ
気になる公演である。
有意の仕掛けと、無意の〈音〉。〈音〉への《素朴な》対置。
が、そこでの〈音〉は「複雑」だ。
いわば、都会という空間、雑踏という空間が《自然》の一種であると受け止める「意識」の解放が必要に思われる。
おそらく身体だけではとらえきれない、「解放した意識」を身体に動員することで聞こえてくる〈音〉たちが立ち現れるだろう。

もうひとつの期待がある。
僕にはずいぶんと久しぶりの《未知なるもの》への期待だ。
「世界」という観念が有限なものになり、既知と既知のつなぎ合わせが優先されて久しい。
〈既知〉を懐かしみ、〈既知〉を確認し、〈既知〉を共有する。
僕はずーっと問い続けてきた。人はどこへゆきたいの? どこへゆくの?
本来、「世界」は《未知なるもの》を包含している。
その《未知なるもの》が私たちに新たな一歩を踏み出させてきた。そう思う。
《未知なるもの》。
メトロノーム? メトロノームオーケストラ?
一見奇をてらった、公演タイトルと内容のようだが・・・
予想や推測を超える何かが現れるように思えてならない。
いわゆる「デジタル」な音源を操作することが本業の斎藤さんが、〈規則正し〉とは言え「アナログ」な〈音〉、しかも無操作の音源をそのまま聴衆にゆだねる。危険きわまりない思いつきである。
この企画には、斎藤さんの〈音〉への本来の《素朴さ》をおぼえる。
この彼の〈音〉への《素朴さ》が《未知なるもの》への期待感を募らす。

2008年12月14日日曜日

「 Ku Holo Mau 」公演を終えて

あっという間に公演は終わった。
五年ぶりの自主公演はどんなだったろうか?・・・これまでになく、普通!
という、実感。きりきりした理論も、見えない壁に刃向かう挑戦もなかった。
それは確かにタイトル通り「 Ku Holo Mau 」、
原初へのいざないだった。

いま、レヴィナス著『困難な自由』を読み続けている。
一日に数行、時に20ページくらい、ゆっくりゆっくり。こんなに間を置きながら読んだことは今までない。ふしぎ!
本を読むとき、じぶんはいつだって「じぶん」を対置する。それは「じぶん」を発見するための読書だから。
昨夜、夢の中で「総体としての人間を、個人はその個性の元で生きている」と。
ううん、発見。と、うれしく目覚めた。

以前、鶴見さんのことばで感激したこと。
☆ くらしそのものは、くらしの意識よりも大きい。そしてもっと重大なものを含んでいる。私自身のくらしは、私の考えをこえる重さをもつ。
☆ 記録にのこるわずかの数の個人を越える偉大な個人が人間の総体にいる。人間の総体は、どんな偉大な個人より偉大である。

二十世紀、「個」の尊厳・尊重は集団や社会や国家というものに対峙する形で進んだ。とりわけ、第二次大戦とその反省からの戦後に。
が、レヴィナスは気づかせてくれる。
「個」は人間の総体からできているのだと。
個の尊厳は人間の総体を有する個であることに由来する。
この気づきは観念ではない。あまりに自明なために気づかれてこなかった。

ようよう、《原初》というものに触れるようになってきた。

2008年10月30日木曜日

11月20日、いっしゅう公演のお知らせ3

 音楽で共演していただく方です。

沼尾美和子さん。ウィーン音楽院のピアノ科とチェンバロ科の両方を卒業。
古楽演奏の大家アーノンクルにも学んでいます。現在は栃木県日光市にお住まい。
今回は、チェンバロの名曲、バッハの「半音階的幻想曲とフーガ」が演奏されます。それと、おそらく多くの方は聴いたことのない楽器、クラビコード(ハンマークラビーア)を演奏していただきます。その「音」には、ちょっとため息が!。






高橋壤司さん。わたしとは何度も共演していただいています。
それもいろんな楽器で。石笛、バラフォン、縄文太鼓といった珍しい楽器の演奏も多々ありました。
もしかしたら、彼が本来リコーダー演奏者であることを知らないファンも多いかも。今回は正当に「リコーダー」。
しかもチェンバロとの二重奏で、バッハの大曲を演奏します。曲目は、なんと「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ二番」。もちろん、ソロ演奏もしていただきます。





林田遼平さん。チラシが出来上がってから、参加いただけることになりました。オーストラリア・原住民アボリジニの伝統楽器「デジュリドゥ」を演奏していただきます。現地で一年以上演奏を学んで、つい先日帰国したばかり。これも楽しみです。

2008年10月26日日曜日

11月20日、いっしゅう公演のお知らせ2


さて、公演タイトル「 Ku Holo Mau 」ですが、チラシ裏面に以下の文章を載せました。

駆動機を持たず、羅針盤もない、原始的な舟「ホクレア号」と呼ばれる双式カヌーが、ハワイから日本までの航海を成功させ、その航海記録を著した方(内野加奈子さん)に出会えた。
太平洋・ミクロネシアに伝わる昔ながらの航海術、風と海と空と星を読み取り、進路を決め、舟を操作するという。本公演のタイトルにさせていただいた「Ku Horo Mau」は、ハワイ語で「マウへ向けての航海」の意。
「 Mau マウさん」。ミクロネシア諸島・サワタリ島の唯一最後の伝統航海術師。このマウさんが1970年代からハワイの人たちに伝統航海術を伝授した。


Ku Holo Mau

風を感じるのはだれ?
そらの光を受けるのはだれ?
あたたかさや、つめたさを滲ませるのはだれ?
生きているものたちの匂いをかぐのはだれ?
「せかい」ということばに身をさらすのはだれ?

もし、目的の地を持っていなかったら、あなたは舟をこぎだすだろうか?
たしかに、言い伝えや古い書き残された地図の中に、
あなたの「緑の地」はあり、あなたは信じることを疑わずに、海の上の人になる。

まぼろしかもしれない、あるやなしや、たどり着いてみないと分からない「緑の地」に、
あなたは漕ぎ出す。(「目的の地」はあなたの 想い の中にしかないのに)

もっとも頼りない、「かなたに緑の地はある」という 想い が、
あなたのからだのすべてをはたらかせる。
旅立ちは舟を沖にみちびく波の良い日をえらんだ。
夜をむかえ、朝をむかえ。いくにちかを波のリズムにのってすすむ。
あなたはうたがわない、あなたの想いの中の緑の地が、
ぎらぎらの青い海原の「向こう」にあることを。(どうして、あなたはうたがわない?)
お日さまの道をみながら、「あっちだ」と指さす。
風をうける肌は、天の移り変わりより早く、嵐が来ることをおしえる。
潮の流れを舟に読み取りながら、「こっちだ」と梶を切る。
夜の星々は、昔のむかしから、緑の地とともにあったと。(信じてうたがわない)
空が照り返すのか、海が照り返すのか、銀幕の無。
ただ進み、ただ其処にあり、時はからだのすべてとともに変わる。
海の道はあなたがつくり、あなたのつくる道は天にきえる。
・・・・・
海に住む、またそれとは違う生き物たちの生くさい匂い、
鳥が空を舞い、「陸?」は近い。(からだはふくらむ)

 緑の地。
 それはあなたの《想い》だった。
 想いがあなたの《いのち》を燃やし、《いのち》があなたの 想い をいざない。
 緑の地に立つ。
 そうして
 せかいが生まれる。

2008年10月24日金曜日

11月20日、いっしゅう公演のお知らせ1




ほぼ五年ぶりの自主公演をすることになりました。今日から何回か分けて、公演について記したいと思います。まずはチラシの様子をアップしましまた。

2008年6月6日金曜日

記すことの意義

今日はたくさんのブログをみた。頭が右往左往しながら、「ことば」の豊かさとつまらなさとを往き来する。なぜ記す? それは「じぶん」が自分の記したことばをみたいから、と書いてる人がいた。うん、これは確かだなと思う。ほとんどの場合、現れることばは瞬間で、次の現れることばを予期などしていない。こうしてキーを打ちながら、打とうとして現れることばに「じぶん」が釣られながら次のことばを打とうと指の運動連鎖させている。「じぶん」はこのとき二人いる。先に進もうとする「じぶん」と何かの形で「じぶん」を確認しようとするもう一人の「じぶん」。ううん、そうすれば最低三人の「じぶん」がほぼ同時に「行為」している。これら三人を「一人のじぶん」として眺めたくて文を記す、ということか? 
だけど不思議なのは、いろんな人の文章を読んでいて、その書いた人自身が自身を振り返ってるように感じられず、なんて言うか「言葉」を放り投げてるような。その人の位置というか立場というか、それらの感情だけが感じられて。戸惑うじぶんはじぶんの心の狭さでないだろうかと自問する。
ときに元気のよいことばを発するじぶんではあるけど、それでもじぶんから現れたことばはまずじぶんに還ってくる。それはじぶんの質か?とよく思う。
「じぶん」は何をどのように考えてるのだろうか? そう思いながら「ことば」を現す。その行為は〈表す〉ではなく〈現す〉。じぶんすらわかっていない「じぶん」のことばなのだから。現れた「ことば」でようよう確認できる。「表れ」に関しては大体は〈不十分さ〉を覚える。
おそらくじぶんが他の人の文章にふれるとき、このようなことがその人の書き方に感じるかどうかを気にしてるような気がする。

「言葉」は基本的に、他者に向かっている。日記のように読み手が自分自身でも、その時の自分自身を他者として暗に置いている。その手慣れてしまった「言葉」の使用法を多くの人は疑わないようだ。「ことば」の成り立ちをヴィトゲンシュタインとかチョムスキーとかが説き、その説かれた言葉の成立を理解しているという人たちすら、ほんとうに、〈理屈として〉理解しているだけ?と、いぶかってしまうことが多い。

じぶんには、個々人の「言葉」から、その言葉の意味よりもその人の「感情」が伝わってくるように思える。そういう「ことば」が多い。だから、だれかと話しているとき、応対がとても遅れるときがある。なにをぼくに伝えようとしてるのか、ぼくはどう返答したらいいのか、と分からなくなって。もちろん応答する内容が機械的というか、目的がはっきりしてるのであればその内容に沿うだけなので結構即答できる。また、内容がもともと互いの感情的なものであれば、もっと速やかに反応できる。喜んだり怒ったり悲しんだり。でもよくあることは、「おれの(わたしの)気持ち・感情を受け取ってよ!」と立場や位置を了解してもらおうと伝えられること。

で、ブログを読んでいてもその手のたぐいが多いように思える。不特定多数に向かって発せられていながら、読み手の「賛同者」を意識的に、無意識的にも前提にした言葉の使い方が。
ふうん。「小説」は不思議だな。ここまで記してきたようなことを気にせずに、物語りにはまっていく。これは「目的」の慣れなのかな? 小説家も読み手も。考えてみれば、小説では「行動」の軌跡が記されていくのが圧倒的。「行為」そのものを現すのは至難かもしれない。・・・ふいに、こうして「じぶん」は記しながら、つい先日読んだ岡田利規の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を思い浮かべている。大江健三郎が驚いたナラティブの表現方法。言えば「行為」への着眼。なにが自分を動かしている? 自分は何をしている? 「自分の行動」をみちびく〈関係〉を表す。ある意味、それはまどろっこしい。 〈じぶん〉がじぶんに問いかけている姿。それは物語りか? やはり大江健三郎は驚いたのだと思う。行動の軌跡を描く方法の中から〈行為〉のみなもとを現し得たらと、彼独自の方法論をひたすらに模索して来ていたのだから。

あらゆる神秘思想の核、意志、というもの。行為のみなもと。
すぐれた役者にみる〈感情〉の「動き(波)」。すぐれたダンサーや演奏家にみる「動き」の〈発露〉の連続(塊)。観る者、聴く者を圧倒してきたのは「意志」の現れ。ことばを紡ぐ芸術家が憧れてきたこと。また物として表す絵や彫刻のアーティストが何よりも現したいもの「意志」。
大人たちの「子ども」への羨望も、また「遊び」という行為への繰り返されるまなざしも。

「意思」という漢字はおもしろい。「意志」の〈意〉と、思い・思わく。意思の思は〈感情〉にほかならない。わたしたちは「ことば」を《意思》表明として使っている。それは西洋も同じこと。だが、「文字言葉」から映し返された「ことば」の理解は違った。西洋はすくなくも「ことば」を意志表明だと考えるし、前提にする。その前提はあまりにも強すぎた。だからヴィトゲンシュタインのような人が現れた。
その固執はキリスト教にみるように、〈意志〉表明は願いであり、願望であり、希望であり、理想である。
一方、西洋は「ことば」に託された〈感情〉を読み解こうとしてきた。それが心理学や人類学をも発展させたのではないか?
逆に日本語を母語とする日本人は、〈意志〉を見いだしたいと試み続けている。がむずかしい。
もしも「ことば」への接し方が変わってきたら、よりハッキリと、〈ことば〉にも「意志」を見いだせるのではないだろうか? そのひとつに漢字の起源から白川静が解き明かした「文字」の生み出され方にみる。表された文字の意味ではない。現れた文字のでかた。本来は声とともにあった「ことば」をどうして「文字」というものに変換したのだろうか? それはまぎれもなく「意志」を〈外に〉現す(=表す)こと。本来、感情と意志とがひとつであった発語する「ことば」から、「意志」をはっきりさせたいと。白川の甲骨文字解読は「意志」の表出にあったと、じぶんはそのように思う。
だが、日本語の発展はおもしろい。中国で約千年の経過を経ての、意志表現としての漢字という文字を日本は輸入した。はじめは中国の使い方に習いながらも、次第に自分たちの発音をそのまま漢字に当て、それから漢字の意味と共通な「意味」の和語をそのまま和語の発音で読ませるようにもなった。さらには「ひらがな」文字をつくった。いわゆる「表意文字」であった漢字に、「表音文字」が加わった。漢字と万葉かな(漢字を和語に当てる)と仮名を混合させながら文字表記は発展した。
日本語ほど感情を「意味」としてとらえ得る言語はないのではなかろうか。平仮名は〈表意〉を背景に、〈表音〉化した。年月の中で、日本人は本来の漢字の生い立ちを踏襲しつつ、一方「感情」を「感情的意志」として文字に転化し、文字に転化された「感情的意志」を自分の感情のありようの鏡とするようになった。そこにはすでにヴィトゲンシュタインやチョムスキーが解き明かした「言葉」は了解され、了解されすぎていた。いわずもがな、本音と建て前、あいまいさ、論理的でない等を含め。
だが、ヴィトゲンシュタインやチョムスキーが解き明かした「言葉」の成立を日本語の分析に〈うまく〉応用できないでいる。それは元々の日本語の成り立ちを考慮せずに、今ここで使われてる日本語を西洋の言語分析に対応させているからではないか?
いわゆる明治以降に西洋の言葉を日本人はこまやかに理解できた。こまやか、つまり西洋の「感情」を無意識に翻訳した。ほんとうに全く無意識に。西洋がそれ自体常に葛藤してきた「意志と感情の関係」のなか、「言葉」を、「文字言葉」を〈意志表明〉として培い発展させてきた「西洋文化」を日本人は異もなく理解した。が、西洋の文化と言葉の関係を彼ら自身の解説するとおりに自分たち自身は受け取っていると〈正しく〉誤解しながら。
和魂洋才。典型は「意訳」である。文化の違い故に理解できない表現をこちら側の文化に当てて理解する。それはつまるところ「感情」の位置を再現したいという日本人の欲求である。何故、しばしば口語調の訳よりも文語調がしっくりするのか? 

白川の発見した文字の生まれ方に改めて目を向けると、少なくも「言葉」には〈意志〉が遺っている。その深く、遠いところに。彼の解読のために着眼した人類学や考古学の例証に目を奪われることなく、その文字の発祥を見定めるなら。
じぶんの思いは逆行してるかも。記号と表象がどんどん二項化する現代に。いわゆる「擬音・擬態」への嗜好。それが何故か「個性」とも連動して、〈感情的個性〉が望まれる時代。
もはや「人間はどこに(へ)〈向かっ〉てるのか?」とは問わず、「人間は今どこに〈いる〉?」と問う。
さて、「記すことの意義」というじぶんのテーマ。
それはじぶんの〈意志〉に気づきたいということ。
現れ出る「ことば」から、いまだ現れ出ぬ「ことば・未来」を予感したいと。
(この文章は書き始めてから三日目にブログに)

2008年5月28日水曜日

感覚・感性ーーーナラティブ


大江健三郎の「河馬に嚙まれる」、大江健三郎賞を受賞した岡田利規の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を読む。その前に、久しぶりに「懐かしい年への手紙」を読んだ。
じぶんはときおり、長々と描写される状況設定を飛ばし読みする。書き手にとって必要不可欠であろう状況設定に付いて行けないというか、それより作中の人物の「行動」、あるいは芝居のような「展開」を知りたいと逸るところがある。
二人の作家にとって、「状況描写」は人物の行動や展開に重なり、あるいはそれ以上に状況そのものが行動や展開を表現するのかもしれない。〈かもしれない〉と言うのは、小説は映画のような視覚表現ではないから、本来視覚で判断できるものを「ことば」に移す作業があり、書き手は書き手の思う(感じる)想像を転写し、読み手は読み手の想像を転写しながら理解、イメージングする。繰り返しだが「ことば」の転写なのだ。
ことばに転写された状況、古典的な意味での「設定」条件ではない「状況」。視覚情報の発展した今日では、行ったことのない場所、歩いたことのない道、出会ったことのない人。あるいは以前、教育問題の中心的な話題だった実体験のない「知識」として取り上げられた諸々のこと。今はだれも視覚情報を疑わない。不思議なくらい。(疑いは視覚情報に付加される「言葉」、また、「言葉」に付随する映像。)・・・それだから、視覚でしかわからないと思ってきた「状況」を〈ことば〉に転写できるようになった。肉体の直接体験がなくてもわたしたちは「状況」を受け取るのだと。(そして同時に教育問題を中心に今度は〈想像力・イマジネーション〉が言われている。だが、相変わらず〈経験的〉体験を前提に。)追体験ではない。仮想でもない。で、いまのところ、やはり「かもしれない」。このあとのじぶんの思うところも「かもしれない」。
共感、共感覚、あるいはヴァルネラブルとか、心理(心理学)的な考察をたどりつつ。
「ことば」に転写する人も、その転写されたことばから改めて「元の状況」に復元する人も、なにか途方もない《信頼関係》に結ばれてる気がする。つまり人の〈想像力・イマジネーション〉を当然と。
古くさい言い方では、機械論や因果論のような原因と結果のとらえ方ではもうこの世の中を把握できなくなったから。また、〈想像力・イマジネーション〉というものも、「見えないものを見る力」というものでないと。
そこで、じぶんの感覚・感性と呼ばれるものを〈自覚〉する時代がやってきた。それを古典的なものを引きずる人たちは「個の確立」とか「自我の目覚め」とか言うが。感覚・感性はなんら特権的なものでなく、「ひと」という生命体が普遍的にもっている、働かせている(らしい)、それを個人の「わたし」として自覚する。

〈語り手・ナラティブ〉の新たな発想?
その構造と機能を草野心平の詩の一節に思う。
——わたしは雪が降っている。——
わたしは「状況」であり、状況は「わたし」。
ここでの表(顕わ)しようは〈感覚・感性〉である。かつ、断るまでもなく、雪の冷たさ、静けさ、精白さ等でなく、「雪が降っている」そのものの〈状況・状態〉。〈状況〉は〈感覚・感性〉に等しい。
もしかしたら〈奇しくも〉かもしれないが、詩人は「例え」のつもりが、自身の感覚・感性を顕わにしたのかもしれない。けれど、「かえる語」を表記し得た能力を思うと、そのままの自身の感覚・感性だったと思う。さて、〈わたし〉と〈わたしを含む状況〉が交叉しつつ描かれる「ことばの世界」
語り手は〈わたし〉であり、〈状況〉であり。
それは意識の肉体化なのか、肉体の意識化なのか。
意識の肉体化を身体表現、肉体の意識化を肉体表現と、とらえてきていたような気がする。
わたしが使う「肉体」という言葉は〈生存〉と等しい意味でだが。
自ずと見えてくるものがある。
わたしたちは「環境〈と〉わたし」なのか、「環境はわたし、わたしは環境」あるいは「わたし〈という〉環境、環境〈という〉わたし」なのか。
そしてこの言い方から、
わたしはあなた・あなたはわたし、と。
・・・ナラティブは「わたし」をそのままに〈わたしのなかのあなた=あなた〉に変わる。が、変わるのでなく、「わたし」は「あなた」になり、「あなた」は「わたし」にもなる。
どうしてそれが可能? 可能ではなく、それが〈感覚・感性〉ということか。

なんとも大ざっぱな言い方だけど、
「ことば」に転写するのは〈人の感覚・感性〉。しかも人としての全くの信頼が〈人の感覚・感性〉にあるのだと。
問題というか、テーマというか、わたしたちはそれを肯定的に扱いたいし、肯定的であって欲しいと願っている。そうでなければ、「あるがまま」「起きることしか起きない」「善も悪も区分けはない」などと、観念が再び肉体(生存)を欺く。

小説は〈虚構〉か? 演劇は? 映画は? これは「視覚」という感覚にまつわる問いかけであるが。昨今の言い方ではヴァーチャル?
もうそんな問いかけはおかしい。
こんにちのわたしたちは〈感覚・感性〉を確認したいのだ。
別の言い方では、〈対処〉する肉体ではなく、〈対応〉する肉体を確認したいのだ。

〈感覚・感性〉はこの肉体にあるのだろうか?
個体差の激しい〈肉体〉を思うと、〈感覚・感性〉もまた個人差が有りすぎる。
——感覚・感性はなんら特権的なものでなく、「ひと」という生命体が普遍的にもっている、働かせている(らしい)、それを個人の「わたし」として自覚する。——
生命体はどうやらこの肉体と環境(外界)との接触域で起きる、起きている〈現象〉を感覚・感性と呼び習わしてきたのでは?
「接触域」という共通性があるゆえに…感覚・感性はなんら特権的なものでなく、「ひと」という生命体が普遍的にもっている、働かせている(らしい)、それを個人の「わたし」として自覚する。…と言えるのでは?

接触域・・・哲学者・鷲田さんが言う「触(ふ)れると触(さわ)る」の違いや、複雑系の言う「カオス・カオスの縁」、さらには「臨界点(域)」という言葉で言われる化学変化。

2008年4月20日日曜日

CD「 The Air 」について



今春、ようやく仕上がった自作CDのこと。上の写真はじぶんで作ったジャケットデザイン。デザインとは言えないかもしれない。安田善吉さんの元写真を加工し、レイアウトした程度。本人は気に入っている。

以下の言葉は、CD制作の出来上がりを知人にできればご購入をと、葉書に印刷した文章です。

弾き語りで愛用してきた11弦ギターが初めて檜舞台にでました。
曲はこれまで弾き語りに付していたものを
改めてギター曲に手直ししたもの、
また11弦という特殊な楽器を少しく意識して
新たに作曲したもの、
さらに11弦ギターの原型である
リュートの為に作られたオリジナル曲を一曲
皆さまにお聴きいただけますようご案内申し上げます。
『 The Air 』収録曲目
1 むかし( in old times )
2 やまなし(宮沢賢治の「やまなし」の為に)
3 森の中で(風と、月の光)
4 ゆき(雪、古風な信仰、碧)
5 車窓から(宮沢賢治の詩「電車」に寄せて)
6 エレジー(草野心平の詩「エレジー」に寄せて)
7 Fortune/John Dowland
8 高原(宮沢賢治の詩「高原」に寄せて)
9 WILL
10 おやすみ

それから、CDに同梱した文章は・・・
《 The Air 》… 自叙伝的、一枚のCD
 「だれでも生涯に一冊の小説は書ける」と言います。その言葉通り、ミュージシャンでもプレーヤーでもないわたしがここに一枚のCDを制作しました。ギターという楽器を手にし、人前で演奏し、しかもそれで日々の糧を得る年月を重ねながら、一度も「じぶんは音楽家・演奏家である」と思ったことはありません。
 以前、公演終了後に「出来てなんぼ、の世界でしょ!」と、わたしの拙い演奏に批判された方がいました。その言葉の意味を理解しつつ、「わたしは言われる意味での演奏はしていません」と応えました。わたしは「出来てなんぼの世界」を認めれずに生きてきました。と言うか、人間一人ひとりの能力や能力差を認めるけど、個々の能力や能力差を「価値観」に換言する考え方を認めれません。
 またその時、「わたしはわたし自身を語るために演奏しています。」と応えました。わたしの本領は大言壮語、大ほら吹き。どうも理解しづらいことを「ことば」に託す癖があります。
「わたし自身をかたる」とは「わたし」を借りて「人間自身をかたる」と思うのです。
どういう訳か、物心ついた頃から〈人間・ひと〉の不思議さに包まれて来ました。じぶん自身のすることなすことが不思議、周囲の人たちのさまざまな行為やすばらしい能力の発揮に驚いてばかり。本当に、人間てなんだろう? って思ってきました。
 いつしか、わたし自身・人間を探る行為そのものがわたしの「表現」、「生き様」になって、今日に至っています。またまた理解しづらい言い方ですが、行為の結果としての「表現」ではなく、行為そのもの、たった今進行中の行為。軌跡の先端にいるじぶん。「即興」という言葉で言われる表現の、可能な限りの中核を目指した行為。が、その行為は同時的に、自身への問いかけ「わたし(人間)は何をしてる?」が随伴しています。
 「生きる」と「生きている」とを可能な限りに交叉させること。
〈行為〉は、わたしと世界との交流そのもの。
「生きる」わたしと、世界の中に「生きている」わたしがいる。
自身への問いかけ「わたし(人間)は何をしてる?」は、世界の中にいるじぶん、そのことの不思議さへの対応ではないでしょうか。
 おそらく、「自叙伝」は世界の中にいる(世界の一員である)じぶんを記すことと思います。
CD《 The Air 》は、「世界」への感謝と祈り。
2004年 4月からほぼ一年の放浪、その後の模索、昨年一年かけてCD制作。
そしてたった今、CDに添えることばとして現れてくれた「ことば」を記します。
                       2008年 2月 いっしゅう(一鷲)


じぶんの行為(ことば)は、いつも経過途中にある。結論的に見えながら、途中経過である。
録音したギター演奏も同じで、録音時点での演奏である。良くも悪くも。そして、CD化するための音源操作も、その時点での環境に応じたものである。いわゆる商品化する(製品化する)ノーハウを持ち合わせてやっていない。
自分も含め、このCDを聴くときに初めて、聴く行為とともに起きるであろう「感慨・想い」が曲あるいは演奏を作る。これは大言壮語ではない。何故とて、じぶんは「結果」を意識した演奏をしていないから。「途次」にある演奏だから。厳密な意味で「即興」と言って良いと思う。もちろん、一曲の収録に数十回もやり直しをしているし、何度も自身の弾き方に呆れ、諦めかけたり。それでもその録音の最中、「こんな演奏を」とのイメージはない。イメージを持てない。その時点の「現れ」に応じたか否かが決め手でしかなかった。

2008年3月25日火曜日

オーディオ機器に三ヶ月


昨年の暮れから、ずーっと、オーディオ機器に首ったけ。大半はヤフーオークションとにらめっこ。どんな機器がある? が、聴いてみないと分からない。どんな機材を試してみよう? アンプは? スピーカーは? プレーヤーは? うーん、高い、金がない。ああ、懲りずに、懲りずに・・・
それで、何か見えてきただろうか? まだ、まだ分からない。けど、どうも〈聴く空間〉というものがあるようだ。オーディオルーム。・・・一気にここまで来たわけではない。まだまだ。
それにしても、人間とは恐ろしい感知力を有するもの。これまで気にかけなかったものを、ある日突然「察知」すると、感知メーターが作動を開始する。そして、どうもその感知力の精度自体を変化させながら、あるところまで感知メーターはレベルを上げ続ける。オーディオ機器に留まらず、どんなジャンルでも、当たり前と言えば当たり前。ほんとうに、人間ってナンなの!
さらにと言うか、「どんなジャンルでも」と言うようにおそろしく色んな感知メーターがあるのだから、それだけ多種多様な人間がいて、多種多様な能力を発揮していること。
こんなことをまともに考えられる? ただただ、感動!

そんなわけで、この3ヶ月間、ブログに書き込む時間がないほど、オークションとにらめっこし、落札できた機器を聴きまくっていた。