2008年6月6日金曜日

記すことの意義

今日はたくさんのブログをみた。頭が右往左往しながら、「ことば」の豊かさとつまらなさとを往き来する。なぜ記す? それは「じぶん」が自分の記したことばをみたいから、と書いてる人がいた。うん、これは確かだなと思う。ほとんどの場合、現れることばは瞬間で、次の現れることばを予期などしていない。こうしてキーを打ちながら、打とうとして現れることばに「じぶん」が釣られながら次のことばを打とうと指の運動連鎖させている。「じぶん」はこのとき二人いる。先に進もうとする「じぶん」と何かの形で「じぶん」を確認しようとするもう一人の「じぶん」。ううん、そうすれば最低三人の「じぶん」がほぼ同時に「行為」している。これら三人を「一人のじぶん」として眺めたくて文を記す、ということか? 
だけど不思議なのは、いろんな人の文章を読んでいて、その書いた人自身が自身を振り返ってるように感じられず、なんて言うか「言葉」を放り投げてるような。その人の位置というか立場というか、それらの感情だけが感じられて。戸惑うじぶんはじぶんの心の狭さでないだろうかと自問する。
ときに元気のよいことばを発するじぶんではあるけど、それでもじぶんから現れたことばはまずじぶんに還ってくる。それはじぶんの質か?とよく思う。
「じぶん」は何をどのように考えてるのだろうか? そう思いながら「ことば」を現す。その行為は〈表す〉ではなく〈現す〉。じぶんすらわかっていない「じぶん」のことばなのだから。現れた「ことば」でようよう確認できる。「表れ」に関しては大体は〈不十分さ〉を覚える。
おそらくじぶんが他の人の文章にふれるとき、このようなことがその人の書き方に感じるかどうかを気にしてるような気がする。

「言葉」は基本的に、他者に向かっている。日記のように読み手が自分自身でも、その時の自分自身を他者として暗に置いている。その手慣れてしまった「言葉」の使用法を多くの人は疑わないようだ。「ことば」の成り立ちをヴィトゲンシュタインとかチョムスキーとかが説き、その説かれた言葉の成立を理解しているという人たちすら、ほんとうに、〈理屈として〉理解しているだけ?と、いぶかってしまうことが多い。

じぶんには、個々人の「言葉」から、その言葉の意味よりもその人の「感情」が伝わってくるように思える。そういう「ことば」が多い。だから、だれかと話しているとき、応対がとても遅れるときがある。なにをぼくに伝えようとしてるのか、ぼくはどう返答したらいいのか、と分からなくなって。もちろん応答する内容が機械的というか、目的がはっきりしてるのであればその内容に沿うだけなので結構即答できる。また、内容がもともと互いの感情的なものであれば、もっと速やかに反応できる。喜んだり怒ったり悲しんだり。でもよくあることは、「おれの(わたしの)気持ち・感情を受け取ってよ!」と立場や位置を了解してもらおうと伝えられること。

で、ブログを読んでいてもその手のたぐいが多いように思える。不特定多数に向かって発せられていながら、読み手の「賛同者」を意識的に、無意識的にも前提にした言葉の使い方が。
ふうん。「小説」は不思議だな。ここまで記してきたようなことを気にせずに、物語りにはまっていく。これは「目的」の慣れなのかな? 小説家も読み手も。考えてみれば、小説では「行動」の軌跡が記されていくのが圧倒的。「行為」そのものを現すのは至難かもしれない。・・・ふいに、こうして「じぶん」は記しながら、つい先日読んだ岡田利規の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を思い浮かべている。大江健三郎が驚いたナラティブの表現方法。言えば「行為」への着眼。なにが自分を動かしている? 自分は何をしている? 「自分の行動」をみちびく〈関係〉を表す。ある意味、それはまどろっこしい。 〈じぶん〉がじぶんに問いかけている姿。それは物語りか? やはり大江健三郎は驚いたのだと思う。行動の軌跡を描く方法の中から〈行為〉のみなもとを現し得たらと、彼独自の方法論をひたすらに模索して来ていたのだから。

あらゆる神秘思想の核、意志、というもの。行為のみなもと。
すぐれた役者にみる〈感情〉の「動き(波)」。すぐれたダンサーや演奏家にみる「動き」の〈発露〉の連続(塊)。観る者、聴く者を圧倒してきたのは「意志」の現れ。ことばを紡ぐ芸術家が憧れてきたこと。また物として表す絵や彫刻のアーティストが何よりも現したいもの「意志」。
大人たちの「子ども」への羨望も、また「遊び」という行為への繰り返されるまなざしも。

「意思」という漢字はおもしろい。「意志」の〈意〉と、思い・思わく。意思の思は〈感情〉にほかならない。わたしたちは「ことば」を《意思》表明として使っている。それは西洋も同じこと。だが、「文字言葉」から映し返された「ことば」の理解は違った。西洋はすくなくも「ことば」を意志表明だと考えるし、前提にする。その前提はあまりにも強すぎた。だからヴィトゲンシュタインのような人が現れた。
その固執はキリスト教にみるように、〈意志〉表明は願いであり、願望であり、希望であり、理想である。
一方、西洋は「ことば」に託された〈感情〉を読み解こうとしてきた。それが心理学や人類学をも発展させたのではないか?
逆に日本語を母語とする日本人は、〈意志〉を見いだしたいと試み続けている。がむずかしい。
もしも「ことば」への接し方が変わってきたら、よりハッキリと、〈ことば〉にも「意志」を見いだせるのではないだろうか? そのひとつに漢字の起源から白川静が解き明かした「文字」の生み出され方にみる。表された文字の意味ではない。現れた文字のでかた。本来は声とともにあった「ことば」をどうして「文字」というものに変換したのだろうか? それはまぎれもなく「意志」を〈外に〉現す(=表す)こと。本来、感情と意志とがひとつであった発語する「ことば」から、「意志」をはっきりさせたいと。白川の甲骨文字解読は「意志」の表出にあったと、じぶんはそのように思う。
だが、日本語の発展はおもしろい。中国で約千年の経過を経ての、意志表現としての漢字という文字を日本は輸入した。はじめは中国の使い方に習いながらも、次第に自分たちの発音をそのまま漢字に当て、それから漢字の意味と共通な「意味」の和語をそのまま和語の発音で読ませるようにもなった。さらには「ひらがな」文字をつくった。いわゆる「表意文字」であった漢字に、「表音文字」が加わった。漢字と万葉かな(漢字を和語に当てる)と仮名を混合させながら文字表記は発展した。
日本語ほど感情を「意味」としてとらえ得る言語はないのではなかろうか。平仮名は〈表意〉を背景に、〈表音〉化した。年月の中で、日本人は本来の漢字の生い立ちを踏襲しつつ、一方「感情」を「感情的意志」として文字に転化し、文字に転化された「感情的意志」を自分の感情のありようの鏡とするようになった。そこにはすでにヴィトゲンシュタインやチョムスキーが解き明かした「言葉」は了解され、了解されすぎていた。いわずもがな、本音と建て前、あいまいさ、論理的でない等を含め。
だが、ヴィトゲンシュタインやチョムスキーが解き明かした「言葉」の成立を日本語の分析に〈うまく〉応用できないでいる。それは元々の日本語の成り立ちを考慮せずに、今ここで使われてる日本語を西洋の言語分析に対応させているからではないか?
いわゆる明治以降に西洋の言葉を日本人はこまやかに理解できた。こまやか、つまり西洋の「感情」を無意識に翻訳した。ほんとうに全く無意識に。西洋がそれ自体常に葛藤してきた「意志と感情の関係」のなか、「言葉」を、「文字言葉」を〈意志表明〉として培い発展させてきた「西洋文化」を日本人は異もなく理解した。が、西洋の文化と言葉の関係を彼ら自身の解説するとおりに自分たち自身は受け取っていると〈正しく〉誤解しながら。
和魂洋才。典型は「意訳」である。文化の違い故に理解できない表現をこちら側の文化に当てて理解する。それはつまるところ「感情」の位置を再現したいという日本人の欲求である。何故、しばしば口語調の訳よりも文語調がしっくりするのか? 

白川の発見した文字の生まれ方に改めて目を向けると、少なくも「言葉」には〈意志〉が遺っている。その深く、遠いところに。彼の解読のために着眼した人類学や考古学の例証に目を奪われることなく、その文字の発祥を見定めるなら。
じぶんの思いは逆行してるかも。記号と表象がどんどん二項化する現代に。いわゆる「擬音・擬態」への嗜好。それが何故か「個性」とも連動して、〈感情的個性〉が望まれる時代。
もはや「人間はどこに(へ)〈向かっ〉てるのか?」とは問わず、「人間は今どこに〈いる〉?」と問う。
さて、「記すことの意義」というじぶんのテーマ。
それはじぶんの〈意志〉に気づきたいということ。
現れ出る「ことば」から、いまだ現れ出ぬ「ことば・未来」を予感したいと。
(この文章は書き始めてから三日目にブログに)