2008年5月28日水曜日

感覚・感性ーーーナラティブ


大江健三郎の「河馬に嚙まれる」、大江健三郎賞を受賞した岡田利規の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を読む。その前に、久しぶりに「懐かしい年への手紙」を読んだ。
じぶんはときおり、長々と描写される状況設定を飛ばし読みする。書き手にとって必要不可欠であろう状況設定に付いて行けないというか、それより作中の人物の「行動」、あるいは芝居のような「展開」を知りたいと逸るところがある。
二人の作家にとって、「状況描写」は人物の行動や展開に重なり、あるいはそれ以上に状況そのものが行動や展開を表現するのかもしれない。〈かもしれない〉と言うのは、小説は映画のような視覚表現ではないから、本来視覚で判断できるものを「ことば」に移す作業があり、書き手は書き手の思う(感じる)想像を転写し、読み手は読み手の想像を転写しながら理解、イメージングする。繰り返しだが「ことば」の転写なのだ。
ことばに転写された状況、古典的な意味での「設定」条件ではない「状況」。視覚情報の発展した今日では、行ったことのない場所、歩いたことのない道、出会ったことのない人。あるいは以前、教育問題の中心的な話題だった実体験のない「知識」として取り上げられた諸々のこと。今はだれも視覚情報を疑わない。不思議なくらい。(疑いは視覚情報に付加される「言葉」、また、「言葉」に付随する映像。)・・・それだから、視覚でしかわからないと思ってきた「状況」を〈ことば〉に転写できるようになった。肉体の直接体験がなくてもわたしたちは「状況」を受け取るのだと。(そして同時に教育問題を中心に今度は〈想像力・イマジネーション〉が言われている。だが、相変わらず〈経験的〉体験を前提に。)追体験ではない。仮想でもない。で、いまのところ、やはり「かもしれない」。このあとのじぶんの思うところも「かもしれない」。
共感、共感覚、あるいはヴァルネラブルとか、心理(心理学)的な考察をたどりつつ。
「ことば」に転写する人も、その転写されたことばから改めて「元の状況」に復元する人も、なにか途方もない《信頼関係》に結ばれてる気がする。つまり人の〈想像力・イマジネーション〉を当然と。
古くさい言い方では、機械論や因果論のような原因と結果のとらえ方ではもうこの世の中を把握できなくなったから。また、〈想像力・イマジネーション〉というものも、「見えないものを見る力」というものでないと。
そこで、じぶんの感覚・感性と呼ばれるものを〈自覚〉する時代がやってきた。それを古典的なものを引きずる人たちは「個の確立」とか「自我の目覚め」とか言うが。感覚・感性はなんら特権的なものでなく、「ひと」という生命体が普遍的にもっている、働かせている(らしい)、それを個人の「わたし」として自覚する。

〈語り手・ナラティブ〉の新たな発想?
その構造と機能を草野心平の詩の一節に思う。
——わたしは雪が降っている。——
わたしは「状況」であり、状況は「わたし」。
ここでの表(顕わ)しようは〈感覚・感性〉である。かつ、断るまでもなく、雪の冷たさ、静けさ、精白さ等でなく、「雪が降っている」そのものの〈状況・状態〉。〈状況〉は〈感覚・感性〉に等しい。
もしかしたら〈奇しくも〉かもしれないが、詩人は「例え」のつもりが、自身の感覚・感性を顕わにしたのかもしれない。けれど、「かえる語」を表記し得た能力を思うと、そのままの自身の感覚・感性だったと思う。さて、〈わたし〉と〈わたしを含む状況〉が交叉しつつ描かれる「ことばの世界」
語り手は〈わたし〉であり、〈状況〉であり。
それは意識の肉体化なのか、肉体の意識化なのか。
意識の肉体化を身体表現、肉体の意識化を肉体表現と、とらえてきていたような気がする。
わたしが使う「肉体」という言葉は〈生存〉と等しい意味でだが。
自ずと見えてくるものがある。
わたしたちは「環境〈と〉わたし」なのか、「環境はわたし、わたしは環境」あるいは「わたし〈という〉環境、環境〈という〉わたし」なのか。
そしてこの言い方から、
わたしはあなた・あなたはわたし、と。
・・・ナラティブは「わたし」をそのままに〈わたしのなかのあなた=あなた〉に変わる。が、変わるのでなく、「わたし」は「あなた」になり、「あなた」は「わたし」にもなる。
どうしてそれが可能? 可能ではなく、それが〈感覚・感性〉ということか。

なんとも大ざっぱな言い方だけど、
「ことば」に転写するのは〈人の感覚・感性〉。しかも人としての全くの信頼が〈人の感覚・感性〉にあるのだと。
問題というか、テーマというか、わたしたちはそれを肯定的に扱いたいし、肯定的であって欲しいと願っている。そうでなければ、「あるがまま」「起きることしか起きない」「善も悪も区分けはない」などと、観念が再び肉体(生存)を欺く。

小説は〈虚構〉か? 演劇は? 映画は? これは「視覚」という感覚にまつわる問いかけであるが。昨今の言い方ではヴァーチャル?
もうそんな問いかけはおかしい。
こんにちのわたしたちは〈感覚・感性〉を確認したいのだ。
別の言い方では、〈対処〉する肉体ではなく、〈対応〉する肉体を確認したいのだ。

〈感覚・感性〉はこの肉体にあるのだろうか?
個体差の激しい〈肉体〉を思うと、〈感覚・感性〉もまた個人差が有りすぎる。
——感覚・感性はなんら特権的なものでなく、「ひと」という生命体が普遍的にもっている、働かせている(らしい)、それを個人の「わたし」として自覚する。——
生命体はどうやらこの肉体と環境(外界)との接触域で起きる、起きている〈現象〉を感覚・感性と呼び習わしてきたのでは?
「接触域」という共通性があるゆえに…感覚・感性はなんら特権的なものでなく、「ひと」という生命体が普遍的にもっている、働かせている(らしい)、それを個人の「わたし」として自覚する。…と言えるのでは?

接触域・・・哲学者・鷲田さんが言う「触(ふ)れると触(さわ)る」の違いや、複雑系の言う「カオス・カオスの縁」、さらには「臨界点(域)」という言葉で言われる化学変化。