2008年12月28日日曜日

斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ


斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ
 「時」をテーマとしたフリーインプロヴィゼーション
 2009.1.31(土) 開場19時 開演19時半
 会場 コア石響(カノンホール)

斎藤マコトさんの初の公演を紹介したいと思い・・・、うーん。
斎藤さんは、普段僕が滅多に聴くことない音楽ジャンルにいる。パソコン上で「音」を作り、MIDIとか、生音源とかをさらにミックスした〈音楽〉。僕はきわめて「ナマ楽器派」。で、どうしても敬遠しがち。が、彼のワークはいつも僕の気をひいて来た。なにやら僕の分からない、知らない、気づかない〈音空間〉を創造してるのでは?と。

〈音〉は〈発信者〉を媒介するもの、自分には〈発信者〉を知りたい欲求が強かった。演奏者は何をしてるの? 何をしようとしてる? 何を現したい?。だから、発信者の《意志》の結果である〈音〉、〈音〉そのものを楽しむことは稀だった。
昨年暮れに、僕は11弦ギター演奏のCDを作ったが、そのマスターCDを斎藤さんにお願いした。そしてこの時以来、僕は初めて「オーディオ」に関心がわき、ステレオ機器のあれこれを取っ替え引っ替えして《音》を聴く、〈音〉の趣味にはまってしまった。

ところで、日本には面白い〈音〉の楽しみ方の伝統がある。鹿おどし、水琴窟とか。自然の現象を活かして、結構規則正しい「リズム」だけの〈音〉を味わう。が、文化はこの独特な〈音〉空間の味わいを《間》あるいは無音と有音の妙、また《静けさ》や沈黙の味わいとしてきた。唐突に「カーン」と響き渡る鹿おどし、それがしばしの「間」をおきながら繰り返され、いつしか、繰り返しのリズムに身体は寄り添う。逆に、明け方のもっとも空気の落ち着いた時間帯に、きわめて小さな「ピィン」という〈音〉を聴き取る、聴き取ることの味わい、小さな〈音〉は次第に時間を紡ぎ、そして自然界のごく微少な〈音〉たちが響和しだし、そこに身体も和する、水琴窟。
思えば、〈音〉への気づきの妙が、まず此処にはある。
有意の仕掛けと、無意の〈音〉。

有意の仕掛けと、無意の〈音〉。
そんな〈音〉には、〈身体〉の反応でしか楽しみは現れないではないか。
これは〈音〉への《素朴な》対置。

斎藤マコト公演 メトロノームオーケストラ
気になる公演である。
有意の仕掛けと、無意の〈音〉。〈音〉への《素朴な》対置。
が、そこでの〈音〉は「複雑」だ。
いわば、都会という空間、雑踏という空間が《自然》の一種であると受け止める「意識」の解放が必要に思われる。
おそらく身体だけではとらえきれない、「解放した意識」を身体に動員することで聞こえてくる〈音〉たちが立ち現れるだろう。

もうひとつの期待がある。
僕にはずいぶんと久しぶりの《未知なるもの》への期待だ。
「世界」という観念が有限なものになり、既知と既知のつなぎ合わせが優先されて久しい。
〈既知〉を懐かしみ、〈既知〉を確認し、〈既知〉を共有する。
僕はずーっと問い続けてきた。人はどこへゆきたいの? どこへゆくの?
本来、「世界」は《未知なるもの》を包含している。
その《未知なるもの》が私たちに新たな一歩を踏み出させてきた。そう思う。
《未知なるもの》。
メトロノーム? メトロノームオーケストラ?
一見奇をてらった、公演タイトルと内容のようだが・・・
予想や推測を超える何かが現れるように思えてならない。
いわゆる「デジタル」な音源を操作することが本業の斎藤さんが、〈規則正し〉とは言え「アナログ」な〈音〉、しかも無操作の音源をそのまま聴衆にゆだねる。危険きわまりない思いつきである。
この企画には、斎藤さんの〈音〉への本来の《素朴さ》をおぼえる。
この彼の〈音〉への《素朴さ》が《未知なるもの》への期待感を募らす。

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